人間失格

人間失格』を読んだ。『恥の多い生涯を送って来ました。』という一文しか、今まで知らなかった。はしがきから始まり、最後のあとがきを読んだところで、なるほど。と一周つながった。

 

私は、その男の写真を三葉、見たことがある

はしがきでは第三者が写真で見た、ある一人の男の子・男性について語っている。男の子は写真の中で拳を固く握り、一から十まで造り物のような笑顔を浮かべている。

この姿から、あ、きっと自分と違う部分の多い人だと思った。(もしかしたら、自分で自分に気がついてないだけかもしれないけど。)『夜は短し歩けよ乙女』では、共感したり、こうなりたいなと思ったりする部分が多かったから余計に。

 

自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり実利的な必要から案打せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗った方が風変わりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。
寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛け布団のカヴァをつくづくつまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だったことを、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。

はしがきが終わり、その拳を固く握っていた葉蔵の視点から描かれた第一の手記が始まる。まずこの想像力に惹かれた。私は大学生になって初めてデザインや物作りに触れて、ものの実利的な意味を知って、日常に溶け込んでいるのにそんな目的があったのかと、単純な形に見えるのに裏でそんな緻密な計算がされていたのかと驚いた。そしてその意味を知るのが面白くなった。けど彼は違う。それを知って悲しくなったんだ。この引用部分以外にいくつか描写がある。彼はこういう自分の頭の中の話、周りの人としなかったのかな。話せなかったのかな。私はもっと聞きたい。

またもう一つ、これに似た遊戯を当時、自分は発明していました。それは対義語(アントニム)の当てっこでした。黒のアント(アントニムの略)は、白。けれども、白のアントは、赤。赤のアントは、黒。

この遊戯の発明は、子供の頃からのあの実利的でない想像と繋がっている気がする。

白のアントは赤、っていう言葉で、好きの反対はなんだろうって考えてたことを思い出した。好きの反対は無関心じゃないかと思ったけど、そうするとじゃあ嫌いの反対は、ってなる。納得する答えにはまだ辿り着いていないけれど、友達と話したところ一旦こんな風に分解された。

好き:ポジティブ, 関心がある。
無関心:?, 関心がない。
嫌い:ネガティブ, 関心がある。

数直線に並ぶ1, 0, -1みたいなイメージ。ポジティブとネガティブが方向で、関心が大きさ。でもそうすると反対っていう関係じゃなくなってしまうかもしれない。って思ってたけど、アントニム当てっこをする彼らを見て、こういうのも捉え方の一つとしてはありなのかなと思った。

「悪。罪のアントニムは、なんだろう。これは、むずかしいぞ。」
(中略)
「冗談はよそうよ。しかし、善は悪のアントだ。罪のアントではない。
「悪と罪は違うのかい?」
「違う、と思う。善悪の概念は人間が作ったものだ。人間が勝手に作った道徳の言葉だ」

アントニム当てっこの中で、上のやり取りがされる。善悪の概念は人間が作ったってことは、罪はなんなのだろうか。キリスト教の主の祈りには、次のような箇所がある。『わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。』罪と悪、両方出てくる。悪ってなんだろう。 

いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、廢人という刻印を額に打たれることでしょう。
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。

葉蔵は麻薬中毒になり、病院に入れられる。人間で無くなりましたと言ってるのに、廢人。人という漢字を含む言葉が選ばれている。やっぱり人でいたいのか、それとも人をやめさせてはもらえないのか。どう捉えたとしても、「世間」のいう「人」に縛られてる気がする。この時の「世間」は「自分」だろうか。きっとどこかでこうでなきゃいけない、というのがあるのだろう。

ここへ来たのは初夏の頃で、鉄の格子の窓から病院の庭の小さい池に赤い睡蓮の花が咲いているのが見えましたが、それから三つき経ち、庭にコスモスが咲きはじめ、

病院に入れられたあとのこの場面では、自然に目が向けられている。人間以外のものを意識する余裕が出てきたように見える。あのジアールを飲んだ時の自分の愚かなうわごとが、まことに奇妙に実現したからだろうか。

そういえば子供の頃に物の実利的な面を知り興が覚めてから、人を怖がり、人に愛と信頼を求めるばかりだった。ここでやっと、風景や五感に触れる描写が今まで少なかったことに気がついた。もう物語は終わりを迎えそうである。

思いがけなく故郷の兄が、ヒラメを連れて自分を引き取りにやって来て、(中略)れいの生真面目な緊張したような口調で言うのでした。
故郷の山河が眼前に見えるような気がして来て、自分は幽かにうなずきました。
まさに廢人。

 病院を出て改めて「廢人」という。社会復帰、という方向ではない。病院の中の狂人の中にいるより、檻の外の狂人じゃない人たちの世界にいる方が、廢人ということを意識させられるのだろうか。

 

パビナール(薬物)中毒にかかりり、(中略)奇矯な行動が多くなったことを心配した、先輩、友人たちが、中毒をなおすため、強引に病院に入院させたのだが、このことは太宰に想像を絶する創劇を与えたのだ。今まで自己の主観的真実、正義、倫理、芸術のため行って来た苦闘が、世間からは単なる狂人の言動として見られていたという衝撃、(中略)もう何も信じることができなくなる。

この『人間失格』は、太宰治自身の人生が大きく反映されているとも言われている。解説には、彼について上のようなに書いてあった。そっか、一見不可解に見える行動は、こんな意味があったのか。『〜芸術のために行って来た』と聞くと、実利的に聞こえるのは、私の思い違いだろうか。

 

そういえば、最近芥川賞を受賞している作家さんたちは
テレビで活躍したり
コンビニでアルバイトしたりしている。

その姿だけ切り取ると
それは「世間」が思う「人間」に
よく当てはまっているように見えた。